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sima記

Twitter @diarog

万年筆

かつての学友と知り合ったきっかけは、喫茶店と煙草と万年筆だった。

大学生の頃、喫茶店で同回生と哲学の研究会をやっていたところ、煙草を片手にあいつが声をかけてきたのだ。ま、学友とのあれやこれやはおいといて、万年筆の話。

 

僕が初めて万年筆を持ったのは中学生の頃、叔父につれられ伊勢丹へ買い物に行った折に、パーカーのソネットを買ってもらったのが始まりだ。ソネットは全体が金属製で、ペン先もスチール。今から考えると重くてバランスもよくない万年筆だったが、それまで使っていたシャーペンやボールペンからすると書き味がよく、それを片手にいろんな文章を書いたのを覚えている。

 

ソネットを大学入るまで使っていたのだけれど、学友の使っていたセーラーのプロフィット21(ニブはM、もちろんコンバーターを付けた)が気に入り、自分で初めて万年筆を買った。僕たちが万年筆を使っていたのは、まぁそういうスタイルが好きだったのもあるが、実用性に長けていたからだ。

大学の講義は、特に僕がいた哲学科の講義は講師の話がほぼ全てを占めていた。黒板に何か書いて進めていくスタイルはほとんどなく、どの先生も簡単なレジュメに沿って自分の考えを言葉にしていくスタイルだった。そんな講義形式において、ノートを取ることは必須である。高校生のときのような授業の形式のみの講義ノートなんて何の役にも立たない。講師の話や、脱線も含めてノートし、それを再読し、講師が意図的に隠しているテーマや概念をさぐりだすことが哲学を学ぶことそのものだった。

そんな講師の話のスピードについていくには、筆圧がほとんど必要なくなめらかにインクが滑り、長時間書いていても疲労のすくない万年筆がどうしても必要だったのだ。3時間も5時間も書いていると、ボールペンは腕が疲労し、シャーペンは筆圧の維持が困難となる。万年筆はそれらの問題が比較的少ない。

 

語られた言葉を一度ノートに写すと、その話を漫然と聞いていた以上の意味がたちあらわれる。話された言葉の印象は時とともに消えていくが、ノートされた言葉は一つの思考の流れを示し、そこの運動の中の明示された意味や、隠された意図を知性に示す。

このノートを取るという習慣は、大学を卒業してからも絶大な力を発揮した。

人間の社会においては、意識的にであれ無意識的にであれなにかを曖昧にしよう、なにかを隠そう、なにかから目をそらさせようとする大きな力がある。これは事実だし、毎日のように体験することだと思う。

しかしそれを語られた印象として処理してしまうのではなく自分の手でとった記録として自らのものとする行為は、批判行為の第一歩に他ならない。僕たちは教育によって字が読めるし、字が書ける。その行為のもつ力を意識的に認識し、その力でもって眼前の現実を我がものとする貪欲なる行為。これが思想のはじまりであると思う。

現在、高校生くらいの人や大学生くらいの人に僕が教えられる実践的な行為の一つはノートをとることだ。全体を記述し、そしてそれを基に自分の叙述を行う能力は生きる上で強力に求められる。

ためしに、日常の友人、家族、教師なんかの身近な人間のする発言をノートしてみるといい。そこから何があらわれるか?そして、欺瞞しようとする者がどれだけノートを取られるという行為を嫌がるかがわかるだろう。

 

手に取り、読め!そして、見て、聞いて、書け!

神の国は恩恵により来たるのかもしれないが、実生活における自由は批判を通してその姿を現す。そしてなにより、実践の始まりは日常にこそあるのであるから。